昭和44年06月22日 朝の御理解
御理解 第2節
「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない。」
信心をすれば誰でも受ける事が出来ると、いと簡単に解いてございますけれども、信心する者が皆神徳家であると言う事ではない。神徳を受けておるとは思われない。ですからここんところを信心すればということが問題だと思いますね。信心すればということは、信心が分かって行けばということだと思う、信心が自分の身について行けばということだと思うね。おかげは身についていってもお参りはしておっても、教えは十分に頂いて覚えておっても、信心そのものが身についていかなかったらお徳にならんですね。
ですからおかげを通して神様が分かるのではなくて、信心が分かって行かなければならん。信心が自分のものになって行かなければならんと言われるのもその事ですね。ここでは信心すれば誰でもとこう、いと簡単に言うておられますけれども、だから只お参りをしおれば、何年間かも信心しておりますからというだけの信心ではいけない。なるほどおかげを受けておるからお参りもしよるし、長年信心も続いておるけれども、果たして信心がどれだけ身についていきよるか。
御神徳を受けられる信心にはなっていないということです、ひとつ先ず分かってそんなら御神徳を頂いて行くと。神徳を受けていけれる信心とはどう言う様な状態というか、事になって来たら受けられるかと言う事ですね。やはり私は思うのですけれども、信心を頂くということは、教えを頂くという事でしょうけれど、その教えを頂いてその教えの生活、教えが生活の中に溶け込んで来る生活。いわゆる信心生活。信心生活が出来なければ、私はお徳はうけられんと。
教えがいよいよ血肉にならなければならないという事。そこで私は段々まぁおかげを受けながら、信心を分からせて頂いて分からせて貰う事はね、全てこの神様のおかげを頂かなければ立ち行かないと言った様な。久留米の初代がある難しいお話しを頂いたけれども意味が分からない。その時のお話しが信心生活という、講題のもとにお話しがあっておった。そこで神様に「ただ今あのように信心生活というお話しを頂いておりますが、私は無学でわかりません。
大体信心生活とはどういう生活をもって、信心生活というのでございましょうか。」と言うて心中祈念をなさりながら御神意を伺われたら、神様からお知らせを頂いておられるのが、生まれたばかりの真っ裸の赤ちゃんがね、綺麗な金布の団の上に休ませておれれる、休ませてある所を頂かれた。しかもその上から紅白の水引をかけておられる心眼を頂かれて、あぁ信心生活とはこれだと思われたということです。いわゆる信心生活というのはこれだというか、ここが起点にここが基準にならなければならない。
お互い生まれて来る時に布一寸でも握って来た者はおりゃしません。もう生まれて来ると同時からそこに産着を着せられ、布団を着せられと様々なその事が、生きて行く為の物が、身について参ります様にね、だから元来人間というものは、生まれた時には何にも無しで生まれてこの世に、生を受けたんだということ、だから自分のものとてはひとかけらも無いという事。自分の物は何にもないという所。全てが神様の御物であり、神様のお預かり物でありね。
神様のおかげを頂かなければ、私共が立ち行かないということが分からせて頂く。そこからいうなら私共がどのような、例えば健康持ち財産を持ちね、どんなに名誉や地位があってもです、もう全てがです何んにも無い所から受けておるという、頂いておるという私は頂き方。いわゆる一遍生まれた時の赤ん坊に返ってしまう。何んにも自分の物ではないという見地に立ってから、信心させて頂きょると様々な道理も聞かせてもらい、御教えを頂かせてもろうて、そこのところが分かって来るでしょう。
その白紙に戻るいうならば。今日私この御教えを頂かせて貰う。ところが御理解ここんところねこちらの白紙のところね、ここんところを頂くんです。これなぁんにも書いてないけん、今日はどこば頂くのじゃろうと思うて、それからまたもういっぺんお願いをしてからね開かせて頂いたら、こんどはその御理解というところ一枚開けた所の、やっぱりここを頂くんです。今日は神様御理解下さらんのだろうかと私は思よった。始めの間は御理解と書いてある右の方の白紙のところ頂くんです。
これじゃ御理解にならんから、もう一遍神様に頂き直して、こりゃ頂き違うとるばいとまぁ思うて、もう一遍お願いをして開かせて頂いたら、もう一枚その御理解と言うところを開かせて頂いた、こんだここんところを頂くんです。二枚目をやはり白紙なんです。そして頂くのが次に頂くのがこの御理解第二節でございました。ちょうどここんところね。そして「神徳は信心すれば誰でもが受けられる」という御理解なんです。けれどもほんならどれほど金光様の御信者があるか分からないけれども。
それがそこに御神徳を受けておるとは思われない。もうそれこそ本当に一部の人が御神徳を受けておるということですよね。御神徳というものはあの世にも持ってゆけ、この世にも残しておけると言う程しのものをですね。先の世までも持っていかれ、子孫までも残ると言う様なものを受けておる者は中々ない。してみるとそんなら教祖様が嘘を仰っておられるかというとそうではない。
ここで信心すればという信心はです、おかげを受けておるからお参りしておるというのは、もう信心の内に入れちゃない訳なんですよ教師様は。私は拝みおりますと言う事だけを信心に入れちゃない。おかげが身について行っても、信心が身について行きよらん。教えは頂きよるけれども、教えが生活の中に頂き頂く信心生活が出来よらん。そこで信心を段々分からせて頂いて思う事、又は分からせて貰う事は、私共の物は何ひとつとてないという、いわば白紙に戻ったところからね。
健康が頂かれ財産が頂かれ、物が身について来る。そこんところを分からして貰い、白紙に返ってその心の状態で、自分の物はなにもないということを、本当に分からせて頂いて、そこから信心の教えが入って来る事によって、初めて信心ということが言えるのです。だから例えば頂いておる健康を、頂いておる財産をと言った様なものを、一遍神様にお返ししてしまわなくてはならぬと言った様な意味ではなくてですね。
昨日は久留米の井上さんのところのお家を改造されました。そのうもう本当に新築以上の事が出来ておる。もう立派な事でございましたが、そのお礼のいわゆる謝恩祭、それにもうお婆ちゃんが八十一才にもなりまして元気におられる、そのお礼も併せ仕えさせて頂いて、お祭りを奉仕させて頂きました。同心の方達が集まって本当に賑やかなお祭りが出来ました。お祭りが段々進みましてから霊神様の方へ移る。霊神様の方へ移らせて頂いて、御神様の方のろうそくは明々とこう燃えておるのに。
霊神様の方だけがもうお祭りが済む前に、両方のお明かしが消えてしもうた。そこで銘々がお家の方達が玉串を上げられるのに、おばあちゃんがいっち先に玉串を上げられる。ところがその明かりが消えておるけん気色が悪かでしょうね。「明かりの消えた、明かりの消えた。」と盛んに言いよんなさいます。「明かりをはようつけんのっち、ならおばあちゃんがあげんいいよんなさるけん、明かりをつけなさい」と言うて、お祭り半ばに又おろうそくを立てさせて頂いて、それからおもむろにまぁ玉串を上げられる。
それでまぁ無事滞りなくお祭りが済んだ訳でございますが。その後の御理解を頂かせてもろうて、教話を頂かせてもらう時にです、私その事を取り上げてお話しをさせて貰ったのでございます。おばあちゃんは応接台あっても私と同じ耳が遠いもんでございますから、応接台のすぐそこんところで、もうそれこそ一言も聞き漏らすまいと、耳をこうしてそのう頂いておりますから、もう私とおばあちゃんとお話ししておるような形で、皆様にも聞いて頂いたんです。
御神様の前にお明かしを明々と立てて御祈念をすると心が明かるうなる。お榊を立てて生き生きと青々とお榊を、水々しいお榊が両方に立っておる、心が生き生きとして来る。しかもあのお榊というのはこう必ずお榊の葉というのは正面を向いておる。普通の木は皆んなこう拝み合っておるですね。けれどもあのう榊という木だけは、必ずこう正面のいわゆる神様に私の心の全てを見て下さい。あれは神様が喜ばれるのではなく、お明かしでもお榊でも、あれは氏子の心があぁなくてはならない。
それを神様がお喜びになるのだ。お明かしでも立てさせて頂いて、明々していると心は明るうなる。明るうなるその心を神様が求めたもうておられるのです。ですからお明かりを立てていなくてもお榊が立てていなくても、いつも神様の前には赤裸々真っ裸。いわゆる真っ裸な赤ちゃんと同じ事ね。赤裸々と同時に心は明々と信心の光、喜びの光というものがあるならばお明かしはいらんのだと。おばあちゃが途中でお明かしが消えたから、お明かしが無いと気持ちが悪いごとあったから、お明かしをつけたけれど。
本当は神様へ奉るのではなくて、自分の心の中にお明かしを頂かなきゃならんのだ。さぁそこでんならお明かしを立てよう、いわば光を頂こうというて頂けるものじゃない。いらいらしたりもやもやしたり、不平不足の出る時にゃもう心は真っ暗な時なんだ。有り難い勿体無い。今日私御神前でこのう私元酒屋ですから、利き酒をしておる所を御心眼頂く。利き酒というのはお酒のいわば味をみるものです。みることを利き酒というんです。それはコップじゃないです。
こんな陶器の真白い陶器で中にね、こう青いあれは蛇の目と申します私共、やっぱり玄人です。蛇の目というそのコップで頂くんです。あれで利き酒は必ず。これはもうあの蛇の目の蛇の目ののあのう白の陶器の容器でお酒をのみますと、第一色が分かるんです。下に蛇の目がある色によってですね、酒の色、色と香りと味というのが、甘辛ぴんというのが酒の生命。これがねその例えば味をみる前に先ず香りを見る。そういうお知らせを頂いてから、どういうことかとこう思うた。
お互い信心させて頂いておるけれど、その信心というのがね、果たして自分がこうやって、毎日お参りさせて頂いておる。もう何年何十年信心させてもろうとるが、果たしてどれだけの信心が頂けておるであろうか、私はと見なきゃあいけん。本当言うたら第三者から見たが一番分かる。信心の無い又は第三者から見るとですです、はぁ成る程あっちは信心しござるけん人柄が違う。同時に又あぁしておかげを受けていかれる。だから自分じゃ分からん。蛇の目で見たら一番分かる。
蛇の目っていうのは巡りの目というふうに頂いてもいいでしょうね。それをそんなら例えば、自分自身が分からせて頂くということね。果たして自分の心の中にね、そのお神酒を利き酒をするというかね、信心によって生まれて来る有り難き勿体無き畏れ多き、と言う様な心が、果たしてどれだけ自分の心の中に育っておるかということね。果たして自分の心の中に信心の喜びがどれ程あるか。これを見たら自分の信心が分かるんです。本当言うたらそれを第三者から見たらね。
あっちは違う信心してござるから人柄が違う第一。同時に信心しござるから成る程何かにつけてあの様なおかげを受けておられる。先日あの合楽会の時に久冨繁雄さんが、あん時本当に私聞き取れる様な話と思うて思いましたが、自分が信心初めてこの方のおかげというのを、ずうっと合楽会の方々に話されました。それをですね実はこうこうこうずうぅっとそのう難儀な中からこうこうおかげを頂いてです。それを第三者が見る所のいわばそのう、それを中にずうっとお話しの中に入れて、素晴らしいと思ったですね。
例えば十年前には私を近所の者こう評しておった。こう言よた「ちいた馬鹿じゃなかじゃろか。」と言う様な悪評の時代もあったと。信心ちゃどうした。また本当に毎日毎日言うならそのうちゃっと洋服に着替えて、毎日毎日椛目通いをされるもんですから、そういうねそのう様々な世評というものがあったんです。その世評がですね自分のおかげを受けていく時代時代に、繁雄さんやっぱあんたが信心するけんで違うばのと。あぁた方の例えば娘達が一人ひとり本当に勿体無い。
まぁいうならばよか所に縁に付かれ、又こんど国夫さんの嫁御さんとても村一番の働き者と、村中の者がいいよるばい。やっぱり信心しよるけんと言った様に、段々第三者の見方が変わって来ておるその過程をずうっと話されました。私はこういう話し方が素晴らしいと思ったんです。それを又事実をずうっと一年一年そうですね。四つ位に切って話されました自分の信心を。
そしてそのう四つはですね、第三者の見方というものをそこの中に入れながらね、自分が成る程別に財産が出来た訳でもなかなければ、別にひとつも立派なお家が出来た訳でも無いけれども、私共がこうして信心させて頂いておれば、世間の者はこの様な風に私、私一家を見てくれております。信心のおかげでと言った様な事で結ばれたんですけれども。本当に確かに第三者が見るのが一番分るです。はぁあっちは信心しょるばってん、いつも内輪がごたごたいつも難儀しござる。
もう信心もあげんなったら道楽と同じ事と、例えば言われる様な事ではねいけない。成る程例えば貧乏しよっても、例えばどうあっても、二年間両親が病気で休んでおられますね。信心しよったっちゃ家の中に病人が絶えんという時代があっても、そこの中に周囲から見るところの信心というものをですね。いわゆる蛇の目から見たところのお酒の色合いというものをです、第三者が一番よく見ておるですね。そのようなお互いの信心というものが、十年信心しよるけれど二十年信心しよるけれどもです。
そこんところ行きつ戻りつでです、ひとっつそれが進展していなとするならですね、これは本当に本気で信心を頂こう、信心を分からせてもらおうということに、私は思いを本気で変えなければいけないと思うです。おかげを頂こうじゃない信心を頂く。それにはまず私共が分からなくてはならないことは、先ず白紙の生まれた時の姿に返る事だ。そして私は尚その井上のおばあちゃんに、お話しを続けたんですけれども、おばあちゃんに聞いて貰う様で皆に聞いてもらったんですけれどもね。
そこでおばあちゃん貴方の所ではね、第一お金に不自由した事がない程にお金の徳を受けちゃるじゃないですか、いかに五人も十人も子供がおってもです、その子供が心配をかけるごとあるのなら、子供の徳ということは言われません。あそこはお金の徳を受けてある、子供の徳を受けてあるというのは、そのお金がですねどのくらい有り難いものにして頂かれておるかということが徳なんです。どんなに億万のお金を持っとっても、そのお金の為に苦しめられておるならば、そりゃ徳じゃないです。
どんなに10人子供がおったっちゃです、その子供から苦しめられておるのなら子の徳じゃないです。例え一人でも良い本当にお母さんを思い事、親思いの子供がおってです、本気で孝行しょうと思うておる子供がおると言う事が子供の徳です。あんたとこのいわば峰子さんね、あのとにかくこうね嫁がよう家をついでいられる、いわば峰子さんが本気でお母さんの喜んで貰える、お母さんが生きてござる健康な内に、お母さんの思う通りにひとつさせて頂こうというのが、今度のこの改築になった訳でしょうが。
こんな立派なお家になった訳でしょうが。だからあなた子の徳を受けておられる。いうならばお金の徳をうけておられる。もちろん物の徳を受けておられる。近所からでも信心仲間からでもね、何か役でも付くらんならん時には、井上さんに必ず持って来る。なら皆さんがご承知の通り、井上さんが信者仲間からでも、どの様な風に頂かれておられるかということ、これはみんな人の徳。いうならばね人間の幸せと言うのは、五つの徳を身に受けなければ本当の幸せでないと言われておるが。
その中のいわば四つの徳を受けておる。人物金健康八十一迄なって、とにかくもう前の晩一晩かかって色々準備されたというおばあちゃんでした、と言う位に健康を頂いておる。けれども頂いておってもです、その健康が喜べれるお金が不自由しない事が喜ばれて、初めてそれぞれの徳と言う事が言えれるのですから、それを例えば頂いておってもです、不平があり不足があったんではね。お徳と言う事が言えれんのですよと。そこで欠けておるのは五つの徳の内に欠けておるのは、御神徳がまだ欠けておる。
八十一になられるお礼を、神様にして頂く為におばあちゃんが、どうでも私は鯉のお供えをするて言いなさるそうです。だから折角鯉のお供えするのなら白鯉ば白髪の徳鯉、それでその白鯉を買いに行かれた。ところが鯉屋さんが言う事がです、折角あぁたお供えしなさるなら白鯉なんて言いなさらんで、あぁたプラチナ鯉ばもう鯉の最高だ。プラチナ鯉がおるからどうでんこうでんプラチナ鯉ばお供えしなさい、ちゅうて無理に進められて、プラチナ鯉を買うてきた。
夕べ泉水に入れられたげな。夕べ私帰ってからすぐ見せて頂いた。はぁプラチナ鯉神様が求めておられる。どうぞ信心しておかげを受けてくれよと仰るのは、こういう徳を受ける事だと私は思うた。だからプラチナの鯉が徳鯉が徳と仰るから、それが身についておるという神様の願いというのはもう一つ、この四つの徳の上に御神徳を受けさせて頂くような、ひとつおかげを頂いてくれよ信心をしてくれよ。それには五徳がですね、五つ五徳というのは火鉢の中にこう入れる、あれが五徳です。
例えばどういう熱い中に差し込まれても黙って辛抱する、いわゆる信心辛抱。とても不平どん不足どん言うだんじゃない。これ程しのおかげを受けておるのであるから、どういうことがあっても黙って辛抱するような、信心させて頂かなければ神様のお徳を頂かれん。神様のお徳を頂くところから、自分の心に光を頂けれる。例えば御祈念中におろうそくが消えてもなかっても、心はいつも自分の心が明々としておられるというところに、信心の値打ちがあるんですよと言って、そのおばあちゃんに私聞いてもろうた。
ですから皆さんも様々の徳を受けておられる。朝参りが出来る健康の徳を受けておられる。思って見ると様々なお徳を受けておられるがです。それをお徳とおかげとおかげと感じえなかったらお徳じゃないということ。そうでしょうがね。子供が十人おってもです子供に苦しめられておったんでは、それはお徳子供の徳とはいえないんです。どんなにそれこそ元気がある、健康のおかげ頂いておっても、その健康を頂いておるということに喜べなかったら、それは健康の徳とはいえないです。
ですからそこんところを、本当に分からせて頂くためにもです、私信心して信心すれば誰でもが御神徳が受けられると仰る、御神徳を頂かせてもらう信心を、そこを目指すために、私共はもういっぺん分からせて頂いて、自分の物が何一つ自分はないんだと。その証拠に何一つとてあの世に持って行ける物はない。自分の物なら持って行ったらいい。持っていけんじゃんないか。神様のお預かりもの、神様から頂いておるもの。必ず神様に一応返さなければならないもの。
そのお預かり物を疎かにする様な事で、おかげの頂けるはずはない。いわゆる石橋先生の言っておられる信心生活とは、全て一切が神様の御物と悟らせて頂いたところから、身について来る信心をもって真の信心といい、それをもって真の信心生活ということがいえれると。そこで初めて神徳は誰しも受けられると言う事に成って来る。しかもそれはみてるということがない。限りがない。
そこにもちろん無尽蔵というかね、限りないおかげが約束される。私共はそこんところの信心をですね、あのう目指させて頂いて、いわゆるおかげ信心から神徳を受けるという信心にまず切り替え、そして分からせられる事はです、まず神様のおかげを頂かなければ立ちゆかんのだという見地に立って、信心が身についてくる。しかも受けておるもの、信心はせんでもおかげはやってあると仰る様な。
そのおかげを、そのおかげと分からせてもろうて、そのおかげに対してお礼、いわゆる自分の頂いておる信心というものをいつも、蛇の目のこのこれに入れてみてね。やっぱり確かめてみなければいけんのです。そして自分が果たして信心させてもろうて、どれだけの有り難き勿体無き、畏れ多きのお三喜を身につけていきょるかということを、検討させて頂きながらね、本当の信心生活にならせて頂かなければ、ならんと思うのです。
どうぞ。